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2009年08月18日

障害者手帳の意味って

私は身体障害者手帳2種を持っています。

このたび、マンションの駐車場の場所について、再抽選がありますが、その際、身障者や高齢者は場所を考慮されるとうかがっていました。

そして、希望について提出を求められたので、身障者手帳のことを明記して出しました。

すると、今日、マンションの理事会から電話がかかってきて、「服巻さんは手帳を持っているとはいえ、そこまで考慮すべき状態ではないのでは、ということになりました」と言われました。

医学的診断ももらい、行政が認めたから、社会が配慮すべき対象であるとの証明の身障者手帳なのですが、外見が普通のように見えるからと、一般人から見かけで「配慮の必要なし」と判断された、というわけです。

自閉症の人たちの苦労と同じ苦労を、私も味わっているところです。

もちろん、明日朝、一応、柔らかな態度での抗議をしてみようと思っています。



  

2008年04月25日

身障者駐車場に停める愚者

今日は、佐賀駅南口にあるアイスクエアビルで仕事した。

そのアイスクエアビルの正面駐車場で見た光景



正面玄関前に2台の車がとめてあるので、よく見たら



正面玄関の2台とも、車椅子利用というマークのついた車だった

その原因は、身障者駐車場に、障害者ではない人の車が停めてあったから

今日は、身体に障害を持つ車椅子利用の人たちの会合もあっていたが

そんなことに気を回さない人なのか、平然と、障害者駐車場にとめて動かそうとしない

車椅子を利用している人たちも困った挙句、正面にとめたのだろう

私は歩けるが身障者だ

これは、声を上げないといけないと思い、アイスクエアビルの事務局に放置しないで指導して欲しいと苦情を申し立てた

「注意してるんですけどね」という返答は何もしないと言っているのと同じだ

と言うと、2度、館内放送をしてくれた

けれども、動かそうとしないので、この写真を撮影した



ホンの1メートルの移動が、どれほど大変なことなのか、どれほど時間のかかることなのか
身体が丈夫な人には思いもよらないのだろう

アメリカだったら通報されて、違反切符を切られている
イギリスだったら通報されて、モラル違反のレッテルを貼られ近所に顔向けができない
日本は館内放送で注意を促しても、動かそうとしない人たちだらけなのか
日本は障害を持つ人に配慮した生活態度を持っているかどうかなどが品性の基準にならないのか

千葉県では障害者の権利を侵害した人は名前を公表されるという条例ができた

佐賀県は、障害者駐車場に止めることのできる人の範囲を広げているが、証明証をもっていなければならない

しかし、そんなことがあってもなくても、自分よりもっと必要としている人が常に周りにいるということへの気配りのできる品性を持つ人がどこにでもいるような地域文化であってほしいものだ。そしてそれは、法律があろうと無かろうと、結局は一人ひとりの心がけにかかっているのだ。

  


2008年04月04日

佐賀県が知的障害を持つ人たちを理解するためのDVD制作

*この記事は、前日の記事の続きとして書いております。


安永健太さんの取り押さえ死亡事件(←このネーミングはマスコミによるもの)があったことをきっかけに、
佐賀県が奮起してくれました。そもそも佐賀県は、現知事になってから、さらに福祉に力を入れてきています。
福祉の充実は、その地域の成熟度と文化性の質を問うポイントでもありますから、良い方向に向かっていると思っています。
ある出来事があってそれが社会に問題提起をするものであったなら、それを放置したり、誰かを責めるだけで終わらせず、何をどうして行くかと思考を働かせることが、その後の社会をより良くし、その出来事で悲しんだ経験を強い未来への希望とテンカンさせるものだからです。前に向かって行動!

佐賀県はこの事件を発端に、去年の12月初頭から検討委員会を発足させ、佐賀県全体を障害を持つ人たちにフレンドリーな社会へと発展させる一助とするための活動を開始していました。検討会は、県を中心に、手をつなぐ育成会の代表の方、知的障害者授産施設協議会の代表の方、知的障害施設協会代表の方、親の会の方々などが月に数回、仕事が終わってから県庁の障害福祉課に集まって、夜遅くまで議論を続けました。一番遅かったのは、夜の0時を回っていたこともありました。

この会で決定して、今後県庁中心に、関係団体が協力しながら実施していくその活動にはいくつかの柱があります。

まずは、行政自身から、ということで、県庁職員全体への知的障害を持つ人たちへの理解啓発の職員研修を必須化し、それを継続すること。

次に、県民全体への啓発活動。これにはいくつかの具体的な計画があります。

その県民全体への啓発活動の1つに、知的障害を持つ人たちを理解啓発を目的としたDVD制作がありました。
佐賀大学のふるさと映像塾の皆さんのご協力により、そのDVDが完成しました。
短期間で制作されたものでしたので、細かい部分で突込みが入る部分は残っていますが、全体にはまぁまぁ良く仕上がっているのではないでしょうか。

その動画は、今月初めより佐賀県のHP上で配信されています。
          ↓
http://www.pref.saga.lg.jp/web/sisetu.html

佐賀県知事は、平成20年の新年の所信表明演説の第1に、障害を持つ人たちへの理解啓発を挙げていました。
そして、4月の新年度の所信にも、トップに障害者問題を挙げておられました。

今夜も、実は、その検討委員会の集まりがありました。

啓発DVDの今後の用い方と、その他の啓発活動の具体的計画について、でした。

先日述べたように、2年前の障害者自立支援法によって、知的障害や精神障害を持つ人たちの人権を保障し、彼らが同じ人間として地域に普通に暮らすことのできる文化性の高い日本、そして、佐賀の文化を発展させていく時代の転換期です。地元で一番お世話になったり活用したりするところ、駐在さんのところやコンビニ、駅やバス、レストラン、薬局、ショッピングモールなどなど。そういうところに、お願いに上がるキャラバン隊を具体的に組むことになったのです。それも県庁主導で!

人情産地佐賀、とは、前知事の頃の言葉ですが、現知事の号令の下、本当に人情産地佐賀が実現し始めている、と、感じた今日の会議でした。


そのほかにも、机上の空論ではない具体的な計画がいくつかありますが、それはこれから詳細が決定し、佐賀県が発表してから書くようにしたいと思います。ぞくぞくと計画が打ち出されていく予定です。

安永さんの命、安永さんが県民に残してくれたこと、彼の命の意味を、こういう活動をみんなが続けていくことを通して考えていくことができると良いねと、今夜の会議からの帰りに、あるメンバーがおっしゃっていたのが、強く心に残っています。
  

2008年04月03日

安永健太さん事件に思うこと~パート1

先日、安永健太さんの取り押さえ死亡事件について、3月28日付で以下のニュースが流れました。

【引用ここから】
佐賀市の路上で昨年9月、知的障害者の安永健太さん=当時(25)=が挙動不審として警察官に取り押さえられた直後に死亡した問題で、遺族が氏名不詳のまま特別公務員暴行陵虐致死の疑いで告訴していた警察官数人について、佐賀地検は28日、刑事事件としての立件を見送り、不起訴処分とした。同日、遺族側に説明した。

 地検は、安永さんの死因を「心臓性急死」として取り押さえとの因果関係を認めず、取り押さえを適正な保護行為と判断した。

 地検は、安永さんの死亡直後から目撃者らの事情聴取を重ね、現場付近にいた女子高生から「警察官が健太さんを殴ったのを見た」との証言も得たが「暴行の事実はなかった」と結論づけた。

 遺族側は、不起訴処分を不服として佐賀地裁に付審判請求する見通し。

                   =2008/03/28付 西日本新聞夕刊=

【引用ここまで】



 2年前に施行された障害者自立支援法は、ノーマライゼーションを実現する社会をめざして、現在施設入所している障害者も地域に暮らすようになることを推進することを基本理念としています。その実行プロセスにはまだまだ解決されるべきいろいろな問題を多数孕んだ法ではありますが、基本理念そのものはあるべき方向に向かっているようです。

 こうして、21世紀になり、障害を持つ人たちもその人権が守られながら普通に街に暮らすのは、実はものすごく当たり前のことです。地域に共に暮らすようになるならば、『見えない障害』をもつ人たちが街のあちこちにいることになります。そしてそれは、本当に本当に当たり前のことです。だけど、そのニーズは多様で、一般の健康な人を標準だと考えてはいけないということです。そもそも人々は多様であり多様なニーズを持っていることそのものが標準であることになるのです。

 安永さんの取り押さえ死亡事件は、そのような時代の転換期に、私たちの地元、佐賀で発生しました。

 知的障害や発達障害も目に見えない障害と言えます。一見してはわからない。

 知的な障害を持つ人の言動が、やや挙動不審に見えるのは、障害の無い者の言動を標準にしすぎているからです。 
それは、障害の無い者が世の中の中心だと考える驕りからくるものです。

 一見、見た目に奇妙だと、すぐさま、挙動不審と決め付ける警察の体質は改められなくてはなりません。

安永さんは怖かったに違いありません。突然、大勢の制服を着た警察官に取り囲まれたのですから。
通常、恐怖の高まった時、人は抵抗します。それは誰しも同じで、抵抗が暴れているように見える行為となるものです。

すると、4~5人で取り押さえるのは、当然のことでしょうか。

警察は、市民に対して絶対な権力を持っているからこそ、まずは市民を怖がらせないことが第一義とされるべきです。
相手を怖がらせず、人として当たり前に丁寧に接していくべきです。
挙動不審だといっても、武器も持たない者に対し、取り囲んで数人で取り押さえるという行為は、権力による暴力以外のナニモノでもありません。

郵便局に行っても銀行でも、コンビニでもバスセンターでも、電車の中でも、どこででも、多様な人々に出会うし、その多様さが容認されるようになること。多様さの中でもお互いに心安らかでいられる地域であるように、ルールを守る。これが良識。

警察は、その良識の手本であるべきでしょう。

万が一、安永さんの死に取り押さえが因果関係を持たなかったとしても(あまり信じられませんが)、佐賀県警はこの事件においては、ルールを守らなかったことは間違いありません。安永さん事件について、地検がなんと判断しようと、裁判でどうなろうと、あの取り押さえの経緯に納得できる人は一人もいないでしょう。

武器を持たない人(一般市民)を4~5人もの屈強な武道を修めた警察官たちで取り押さえるということの、理由の説明が無いからです。

一度、佐賀県警の方々の言い訳を直接うかがってみたいものです。

私は、仕事で、多数の発達障害を持つ人たちの地域生活を支援しています。
発達に障害を持つ子どもたちには、将来、地域で暮らすスキルを身に付けるように指導も続けています。
親たちも、わが子には自分の力を最大限生かしながら、地域の皆さんに見守ってもらいながら、また、いくらかは助けてもらいながらも、わが子が生まれてきて良かったと思えるように地域生活を整えてあげたいと全力を尽くしています。

通常、親や本人たちが心配するのは、地域の人々が理解してくれるかな、ということでした。
しかし、今は、地域に暮らす市民を平等に守るべき警察が、ネックだとわかりました。

この子どもたちが地域で暮らすとき、警察は、助けてくれるのでしょうか?
それとも、平等性を欠いた目で取り締まるつもりでしょうか?
佐賀県警の体質が変わらない限り、佐賀の地元で地域で暮らす、というのは、難しいのでしょうか。

警察は公的機構であり、私たちの血税で動いています。佐賀県警には、障害者が地域で暮らすことをどのように支援していくつもりか、という方針を、きちんと明文化して発表してもらいたいものです。佐賀県警があるから『地域では暮らせないよ』と市民が思ってしまわないために。


*この記事には続きがあります。翌4月4日の記事がその続きですので、継続してお読み下さい。
  


2008年04月01日

見える障害と見えない障害

私の股関節の病気は、『変形が進行する』ものです
それによって引き起こされた状態は元には戻らないので、それが『障害』です
『障害』とは、その状態が元には戻らず生涯続くというのが定義なのです

そして、その障害の状態によって引き起こされる不便は、社会生活を送る上で不利となり
それが、バリア(障壁)です

私の股関節の病気は、その病気と障害が証明されたので、『身体障害を持つ者であり、社会によって便宜を提供される合理的根拠を持つ者である』と認定され、身体障害者手帳が付与されました。

しかし、股関節の病気をもつ人の誰もが経験することですが、

・日によって状態が違う
・時間帯によっても状態が違う
・座る椅子の影響も受ける
・持つ荷物によって影響を受ける
・自分の体重にも影響を受ける
・睡眠具にも影響を受ける
・自分の姿勢にも影響を受ける  等等

ため、痛む時とそうでない時があり、そうでないときは何事も無いかのように歩くことができます。
また、痛む時の予想が自分ではつけることができないため、何事も無く行動できている時でも、突然、激痛のあまりに歩けなくなったりします。気温が低いからとか、一定の波があるとかではなく、本当に予想がつかないことばかりです。

しかも、歩ける時があるのです。

だから、この痛みとか不便さとか、家族にもわかってもらえないことが多いです。

痛いときは掃除もできません。
掃除機を持つことやモノを移動させることができないからです。
料理のために長時間台所に立つこともできません。

しかし、家族は歩ける時のほうの記憶が強いのか、その状態の変化に気づいてもらえません。

股関節は体内にあり、見えないのですから。


見えない障害のため、理解してもらいにくく、社会的不利や生活上の不便より、理解者が見つからないことの方が心理的に追い詰められます。誰にもわかってもらえない。。。


私の場合、レントゲンなど医療的に明確な症状だったので、身体障害者手帳を頂き、それを証明書として、はた目にはわかりにくくても、身体障害としての合理的根拠のある便宜を図ってもらうことができています。2種ですし、65歳になっていないということで、ガイドヘルパーは頼めないし制限もあるのですが、それなりに助けてもらうことができています。

しかし、私以上にはた目にはわからない障害を持つ人たち
精神障害とか発達障害の人たちは、一見すると、五体満足ですし健康そうに見えるかもしれません。
精神障害の人は通院が必要なのですが、移動にかかる補助が少ないようです。
また、発達障害の人たちは、まだ手帳も行政サービスも整備されていません。

見えない障害の人たちの心理的苦痛を、私も少しだけ味わいました。

身近な人たちが何を必要としているか、ほうっておいて欲しいのか、それとも実は少しばかりの配慮を必要としているか、敏感でありたいものだと思いました。

行政サービスの向上も不可欠ですが、人間は身近な人たちにわかってもらうだけでも心が救われるような気持ちになるものです。
まずは身近な人たちへの気配りができる私たちになりたいですね。

だって、いつかは誰しも高齢者になるのですから。
高齢になると、身体が利かなくなって、社会的不利を多数被ることが多いのです。

『明日は我が身』、ということを思えば、
昨日の自分より今日は、人にもう少しやさしくなれるかな。